last updated 1997/07/14
第60話(全130話)
桃色の雲の彼方に(1/2)
9 桃色の雲の彼方に
険しい山道を、マリカは懸命に登っていた。
ワーターの手綱を持ち、そのグリフォンを引っ張るようにしてマリカは自分の足で山道を進
んで行く。ワーターがどんなに主人想いでも、背中にマリカを乗せて、この急な斜面を登るの
はとても無理だった。それはそうだろう。傾斜確度は八○度を越えていた。ほとんど垂直と言
ってもいい。歩く、というより四つん這いになってジリジリと這い進んでいる、といったほう
が正しい。マリカはいま、山の頂上を目指して、それなりの装備も持たずに、ただその強い意
思だけをピッケルの代わりに斜面に打ち込んで、果敢にも山登りに挑んでいるのだった。
マリカの後ろにマスターが続く。こういう急斜面では彼の短い足と長い腕が幸いして、マリ
カほど苦労している様子もなく、ヨタヨタではあっても着実に一歩一歩登り続けている。けれ
どこういう体形の場合は、登りよりも下りの時に苦労するだろう。どんなに腕を突っ張ったっ
て、前のめりに倒れ込んでしまうのを防げそうもないからだ。行きはよいよい帰りは怖い、と
いうやつだ。恐らく、山を下る時は転がり落ちることになるんだろうなっとマスターの中で、
ピートはタメ息をついていた。
それがわかっていても、ピートはこの山に登らなければならなかった。その必要があった。
山の頂上にはアーバムの村があるのだと言う。パピロがそう教えてくれた。マリカもその噂
を聞いたことがあると言っていた。こんなに苦労して、帰りのことを考えると目の前がくらく
らしそうになりながら山登りに挑んでいるのだから、パピロの話やマリカの聞いた噂に間違い
がないことを祈りたい。
こういう時、歩かなくてもいい生き物というのは楽だ。フィンフィンは息を喘がせて急斜面
にへばりついているマリカやマスターを横目にスイスイと宙を泳いでは先頭に立ち、マリカた
ちが追いつくまで羽根をやすめて鼻歌などを唄っている。
いい気なもんだと思うけれど、いちばん楽をしているのはフィンフィンではなく、パピロな
のだった。パピロはそのちいさな体をフィンフィンの背中に乗っけって、朝からずっと、一歩
たりとも自分の足で歩こうとはしていなかった。フィンフィンだって飛ぶのにはそれなりの体
力を使うのだから、いちばんいい想いをしているのはパピロだ。
そもそもこの山を登ろうと言い出したのはパピロだった。彼の求めるアーバムさんは、この
山の頂上に暮らしている。だから、もしピートやマリカたちと出逢わなければ、パピロだって
自分の四本の脚で、ひーこら一歩ずつこの急斜面を登らなければならなかったはずなのだった
。なのに、こんなに楽ちんな行程を楽しんでいる。もしかしたらパピロは、誰か頂上まで自分
を運んでくれそうなお人好しが現れるのを、あの洞窟で待っていたのかもしれない。パピロに
とってマリカたちは「いいカモ」だったわけだ。
「しかしそれにしてもすごいね」パピロは言う。「こんなに高い山を歩いて登る物好きは滅多
にいないよ。おいらは運が良かった。ひとりで登ってたら十日はかかったよ。だってほら、お
いらはこんなに小さいんだもん。歩幅だってマリカの百分の一だよ。十日はゆうにかかったと
思うな。うん、間違いなし」
そう言って、けれど「助かりました。ありがとう」とは言うつもりはないらしいパピロを横
目に、マリカは黙々と斜面を登り続ける。ピートと同じように、彼女もまたアーバムたちに質
問があった。
あたしとはいったいどういう人間なのですか。
それがマリカの持っている質問だ。
その問いかけへの答えをみつけたくて、彼女は城と国を捨てて旅に出たのだ。旅が自分に答
えをもたらしてくれると思った。カイラ国の姫君だとか、どこそこの王女だとか、そういった
飾り立てられた自分ではない本当の自分を、マリカはぜひともみつけたかった。
あたしとはいったいどういう人間なのですか。
その答えは人生の最後にようやくみつかるものだと父は言った。精一杯に時を生き抜いて、
はじめて自分がどういう人間だったのかを人は知ることができると。
けれどマリカは待てなかった。
ただ時に流されて、それで行き着いた先で自分が何者なのかわかったところで、それは何の
意味も持たないと、そう反論した。年老いてしまってから、自分が誰なのかわかったって、そ
んなの無意味じゃない。
「無意味ではない」
父王はそう言った。
「むしろ若くして自分が何者なのか知ってしまうことのほうが無意味だ。自分を知ってしまえ
ば、もうその時点ですべての可能性が消え去ってしまう。自分は農夫なのだ。畑を耕し子を育
て、生涯、土と格闘することで人生をまっとうする。そういう男なのだ、とわかってしまって
いたら、彼の人生はそれに縛られる。農夫として立派に生きることも尊い人生だが、もしかし
たら彼には音楽の才能があったかもしれない。なのに、生涯を農夫として生きるのだと決めて
しまったら、彼が作り上げたかもしれない壮大な交響楽は永遠に失われてしまう。そういう可
能性を自分から捨ててしまうことになりかねない」
父王はそう言った。マリカは反論する。
「それは自分が偉大な音楽家なんだっていう真実を知らなかったせいだわ。本当の自分がわか
っていないから、そういうことになるのよ。もし彼が農夫として土と格闘するのが本当の自分
ではなく、本当は音楽家として、楽譜と格闘するために生まれてきたのだと知っていたら、彼
はきっと万人を感動させる永遠の交響楽をものにしたはずよ。なのに、本当の自分を知らず、
ただ環境が強いるままに農夫として生きることを押し付けられたのよ。農夫として立派であれ
、農夫として雄々しく生きよ。そんなふうに思わせられただけだわ。そしてそういう自分に満
足して、自分の人生に誇りを持って、彼は土を耕し妻や子供を愛し、充実した実り多い人生を
まっとうするのよ」
「それのどこがいけない?」
「世界から偉大な交響楽が失われたわ」
「いいかマリカ。人は精一杯に生きようとすれば、必ず本来の才能と向き合うことになる。そ
の才能を生かすことで、真実の自分と向き合える。徒らに焦ることはないんだよ、マリカ。環
境がお前に良い姫であれと強いたところで、お前の人生の意味がほかにあるのだとしたら、必
ず時の流れがお前を正しい方向に導いてくれる。それを信じて待つんだ」
(つづく)
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